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シリーズ・児童福祉の新時代へ

2020.01.27 更新

津崎哲雄氏インタビュー 「ガラパゴス化を超えて―― 日本における児童ソーシャルワークの確立へ」【NEW】

<シリーズ・児童福祉の新時代へ その3>

~過渡期を迎えた日本の社会的養護「新しい社会的養育ビジョン」の実現へ向けて~

「ガラパゴス化を超えて――
日本における児童ソーシャルワークの確立へ」

この人に聞く!京都府立大学名誉教授 社会学博士津崎哲雄氏インタビュー

日本の児童福祉は平成28年の児童福祉法の改正、および平成29年8月に発表された『新しい社会的養育のビジョン』により、日本の児童福祉は家庭養育の優先に舵を切りました。その手本の一つなったのが、英国の児童福祉の変遷および現体制です。
英国における児童ソーシャルワーク研究の第一人者で、先陣を切って数々の論考を発表してきた京都府立大学名誉教授の津崎哲雄先生。「第二次世界大戦後の混乱期のままだった日本が、新ビジョンによってようやく進み始めた」と語る津崎先生に、英国での経験に基づいた、日本の子どもの意見表明および社会的養育のあり方、そして日本における児童ソーシャルワークの確立へ向けての展望をお聞きしました。(聞き手/日本財団 国内事業開発チーム チームリーダー高橋恵里子)

◇乳児院でのボランティアが進む道を変えた

―津崎先生が福祉の分野に進まれた理由を教えてください。

津崎 きっかけは18歳のときのボランティア体験です。中卒後は大分工業高等専門学校(大分高専)機械工学科に進みましたが、ボランティア活動のために別府の乳児院を訪れました。そこはカトリック系の施設で職員はほとんど女性。“お兄さん”が珍しかったのか、30人くらいの乳幼児がドッと集まり、僕の体にまとわりつきます。帰る時間にもなかなか離れず、玄関口も出られなかったほどでした。
衝撃でした。「いったい、この子らはなぜこんな行動に固着しているのだろう」「この現象をどう受けとめたらいいのだろう……」と、しばらく混乱から立ち直れませんでした。これが僕の福祉と社会的養育への関わりの原点です。
乳児院でのボランティアを終えた後も、「もっと何かしたい」という気持ちが残り、施設のシスターに相談したところ、在学している大分高専の近くにこの乳児院の姉妹園の児童養護施設があるとのこと。「そこでボランティアをしませんか?」と促され、通学しながら1年半通いました。
やがて5年生の就職活動期になりました。機械工学科ですから、同級生のほとんどは大手電機・機械・自動車メーカーなどへの就職を目指します。僕も4年夏には川崎の有名な鉄工所に1カ月ほど実習に行きました。実習先からは「ぜひうちに来てくれ」と声をかけられましたが、児童養護施設での体験が社会福祉への関心を高め、「もっと勉強をしたい」という気持ちが強くなり、卒後は就職せず、大学で社会福祉を学ぼうと決めました。
家族は大反対で、兄が下宿まで説得に来ました。でもそれを振りきって、日本社会事業大学で4年間、それなりにすごし、卒業式では総代を務めましたよ。成績で選ばれたわけではありませんが。いい時代でしたね。

その後も大学院まで進まれたのはなぜですか?

社会福祉の理論的なこともさらに勉強したかったからです。大阪市立大学大学院合格後、予定指導教授の柴田善守先生から勧められ、大阪府下の児童養護施設に住み込みで働きながら施設ケアの実際にふれつつ、週二日大学院に通い、修士号を得ました。
住み込んだ施設は、京大法卒の一家言をもつ方が運営されていたところで「あの施設に住み込むのかね!立派な施設長だよ、がんばりなさい」と、社大の仲村優一先生から激励されたのを憶えています。
当時も今と同様、児童養護施設は大舎制がほとんどでしたが、僕が住み込んでいた施設は30人ほどの小規模なものでした。戦後から大阪の各施設の高校進学希望男児を集めたいわばエリート施設で、高校進学率も高かったようでしたが、僕が働いた時代にはごく普通の幼長男女混合施設でした。当時の施設としては進んだケアを提供しているところだと思いましたが、この種の社会的ニードに対し、他の先発国ではどのような方策を実施しているのか、もっと学びたいと常々思っていました。
そんなとき、文部省の学術振興会から大学院留学奨学金制度が私が所属する生活科学研究科に回ってきたのですが、幸運にも他に希望者がおらず、博士課程2年目に留学できました。それで1977~79年の2年間、社会政策研究・ソーシャルワーク教育研修のメッカ、ロンドン大学LSE(London School of Economics and Political Science)の社会科学/行政学研究科・ソーシャルワーク課程に交換留学研究院生として受け入れてもらいました。
奨学金で1年、もう1年は施設で貯めた金を使って、大英博物館の裏手にあるLSE学生寮3人部屋で暮らしました。円がどんどん強くなった時代でした。1年目は1ポンドが約670円、2年目は約430円と、送金される金の価値が上がっていき、嬉しかったですね。

 ◇英国の児童ソーシャルワークを研究

―ロンドンではどのような経験をなさいましたか?

渡英前は、英国ではファミリーグループホームという、5~6人の子どもを夫婦住込みの職員がアシスタントに助けられ、普通の家でケアする方法が標準となっていると思い込んでいました。LSEでの講師は児童ソーシャルワーク実務経験者の女性講師(Ms Joan Williams)でした。
先進国であろう英国の施設ケアについて知りたかったので、彼女に「ファミリーグループホームの研究に来ました」と挨拶をしました。すると、「ファミリーグループホーム? ああ、確かにそういうものがありましたが、大昔のことですよ。あなたはこの分野の歴史の勉強に来たの?」と問い返され、驚いてしまいました。
戸惑いながら、「ファミリーグループホームじゃなかったら、社会的養育を受ける子どもたちはどうしているのですか?」と訊くと、「ほぼ里親委託(foster care=fostering)にシフトしつつあります」との答えでした。
僕が留学したころの英国の里親委託率は、実際のところまだ45~55%程度ではあったのですが、入所施設を次々と廃止し、里親委託や養子縁組(ファミリー・プレイスメント)を拡大して主たる社会的養育資源としていく過渡期にありました。
そもそも、ファミリーグループホームは1950年代末には、「失敗に終わった施策」と認識されていました。なぜ失敗なのか。結論としては、施設を小規模化し、少人数の生活環境にしても、家庭という意味でホームではなく、グループケアを実施する施設の範疇であることには変わりないという事実は避けられず、そこから学校に通う子どもたち、そこを巣立った若者たちへのスティグマ(烙印)が払しょくできないことが問題だったのです。
施設の規模を小さくすれば、子どものニーズを充足できると考えられてきましたが、ファミリーグループホームは決してファミリー・プレイスメント(家庭委託)ではなく、中途半端な資源形態では子どものニード充足には不十分ということが判ってきたというわけです。
こうした社会的養育資源をめぐる動向と前後して、英国では戦後も施設児童のみをオーストラリア等に不当に移民させ、大英帝国植民地の人的資源として供給し続けた当時の国策、いわゆる「からのゆりかご」問題が社会的に強く非難されていました。その国策に対して、さらにはそれを実施した民間児童福祉団体の協力体制が鋭く批判されるようになったため、政府も民間児童福祉団体も施設ケアから撤退し、国際潮流であるファミリー・プレイスメント(里親や養子縁組など)へ転換しなければならなかったのです。

では津崎先生が取り組みたいテーマも変わってきたのですか?

そうですね。最初は施設ケアを徹底的に勉強したかったのですが、ファミリー・プレイスメントに移行する流れでしたので、講師の勧めにより、戦後英国自治体児童ソーシャルワーク展開の概要を押さえ、ファミリー・プレイスメントへの転換施策白書1946年『カーティス報告』とその実現化法規=『1948年児童法』の勉強を皮切りに、児童ソーシャルワーカーの金銭活用を可能にした『1963年児童青少年法』、教護院(児童自立支援施設)を廃止し児童ホームと統合してコミュニティ・ホーム制度を導入した『1969年児童青少年法』、大人ソーシャルワークと児童ソーシャルワークの部門を統合しソーシャルサービス部として自治体ソーシャルワーク専管部局を完成させ、自治体ソーシャルワークという専門職域を完成させたシーボーム再編成などの施策実践動向をまとめ上げ、地方自治体児童ソーシャルワーク機関の成立と展開をエッセイにまとめ、講師に提出しました。これは後の博士論文の骨子となりました。
そういうわけで、社会的養育資源のあり方研究から地方自治体児童ソーシャルワーク部局の研究に焦点を移したのですが、社会的養育問題のゲートキーピング機関=児童相談所にあたる社会機関のあり方が社会的養育制度実務に直結していることから、ごく自然に自治体児童部(Children’s Department)研究に移っていったのです。
当時の児童ソーシャルワーカーの専門教育研修コースは、徐々にソーシャルワークそのものの動向の影響をうけ、精神分析学に基づく様々な研究成果が教育研修内容に取り込まれていました。J.ボウルビィの指導やタヴィストック・クリニックの支援の下、小児科医で精神分析家のドナルド・ウィニコットが講師となるなど、英国精神分析学の理論/応用を基盤としつつ経験主義に支えられた児童発達理論・社会資源・ソーシャルワークを切り結ぶ専門職児童ソーシャルワーカー教育研修が、その後の英国自治体児童ソーシャルワークの方向性に強い影響を与えました。そういう意味でも英国ではソーシャルワーク発展と社会的養育の施策展開は表裏一体だったのです。
帰国して書いた論文の多くは、約13年後に『ソーシャルワークと社会福祉:英国地方自治体ソーシャルワークの成立と展開』(明石書店2003)として本にまとめ出版しました。

その本を上鹿渡和宏先生(早稲田大学教授)が読まれたのですね。

びっくりしましたよ。「勉強させてください」と、京都府立大学大学院に入学してきました。彼も乳児院でのボランティアで僕と共通する体験をしており、児童精神科医でもあったので、施設委託から里親委託への移行の実際、精神分析を含む精神医学諸理論とその応用が英国ソーシャルワークに多大な影響を与えていることなどに大いに関心があったようです。
それで、修士一年で博士課程に入り、欧州における乳幼児社会的養育の脱施設化というテーマに取り組み、ほとんど自力で成果を博士論文にまとめ、それを本にしてくれましたね。上鹿渡和宏『欧州における乳幼児社会的養護の展開―研究・実践・施策協働の視座から日本の社会的養護への示唆』(福村出版2016)。

◇日本における子どもの意見表明運動

現在、日本でも推進されている、子どもの声を聞くアドボカシーについて、当時の英国ではいかがでしたか?

留学1年目に「社会的養育で暮らす子どもたちの意見表明活動」の記事をタイムズ紙で読みました。施設や里親で暮らしている子どもたちが、自分たちが抱えている問題と、自分たちの生活環境の不備や好ましくない規則や実務、あるいはシステムの問題を週末に集まって語り合い、意見表明しているというのです。社会的養育だけでなく、広い意味で子どもの権利剥奪状況改善運動に助成している公的団体(NCB)が主催し、意見表明週末宿泊交流会でまとめられた社会的養育当事者=若者の意見(サービス評価)が冊子として公刊されたという記事でした。
早速その冊子(Who Cares?-Young People In Care Speak Out)を取り寄せて読みましたが、とても興味深い内容かつ衝撃的でした。社会的養育当事者である若者が、「ソーシャルワーカーが頻繁に替わって困る」とか「施設を移動するときに配慮が足りない」とか、さらには「職員から叩かれた」というような、施設に不利になる問題を堂々と発言しているのです。このようなレベルの発言が当事者によって発信できるのが社会的養育なのかと、つくづく日本の現状の遅れを感じさせられました。
帰国してからすぐにその冊子の翻訳・出版に取り掛かり、自費出版しました。以前勤めていた児童養護施設の施設長は、「なかなかいい冊子じゃないか、大事なことが書かれているね」と喜んでくれました。300部ほど刷ったでしょうか。福祉新聞も第一面で紹介してくれましたが、ほとんど売れ残りましたね。国連子どもの権利条約採択の10年前でしたので、日本ではまだまだ「子どもの意見表明」の意義や重要性が認識できておらず、そうした国際動向に目を向ける発展段階にはなかったのだと思います。

時代が追いついていなかったのですね。それでも児童養護施設の環境を変えるために動かれていたそうですね。

英国での経験から、施設で暮らす子どもの意見表明の必要性を痛切に感じていました。やがて1980年代末から、数名の養護施設長の先導により、日本でもこうした動きが出てきて、「全国養護施設高校生交流会」が始まったのです。
第1回が鳥取、第2回が北海道で開催され少数の参加ではありましたが、第3回の京都大会から、全国養護施設長協議会(施設経営・運営者協会)も公認する形で、全国規模での開催になりました。舞鶴市の民宿村を借り切って、各地から集まった高校生たちが小集団で自由に討論できる場を設けました。児相ワーカーや施設職員など大人はあくまでアシスタント(サポーター)として参加、高校生たちが主体的に語り合える場と雰囲気づくりに努めました。
そのときアシスタントとして僕が担当したのは6人の女子グループでした。最初はみんなすごく緊張していましたが、話を始めたらどんどん言いたいことが出てきます。職員の対応がどうだとか、児相ワーカーへの不満とか、施設の居住環境を変えて欲しいとか、門限が厳しすぎるとか……。東京の施設の小遣い月額を聞いた九州の施設の高校生がぶったまげて「うっそう!不平等だ!」と不満を訴えていましたよ。東京都の施設は九州の施設よりもはるかに多く高校生に小遣いを出していたからです。実際6人ともバラバラの額でした。
交流会の最終プログラムでは、討論で出された意見をまとめて箇条書きに整理し、報告書を作成し、施設経営/運営者協会にも厚生省にも社会的養育当事者の声=意見表明として広く発信していたのです。そのうちに厚生省の専門官も参加するようになりました。施設で暮らす高校生や小中学生、すべての子どもたちにとって、とてもいいことが起りつつあり、僕はこの活動が日本版Who Cares=社会的養育当事者の意見表明、サービス評価活動に育っていく可能性を強く感じていました。
しかし、この施設高校生交流会は10回(実質7回)以上続きませんでした。1995年の福岡県北九州市での開催のとき、自施設での職員による虐待を訴えた高校生がいたのです。ところが交流会運営組織側の大人はその意見表明にまともに対応することができず、交流会の大人に期待していた高校生は不満を解消できぬストレスが昂じて、福岡に帰ってから地元紙に情報提供し、この人権侵害を公に暴露してもらったのです。権利条約の意見表明権をみごとに行使したわけですから、大人はそれを評価しなければならないのにもかかわらず、問題が公然となったことで、高校生交流会はとんでもない活動だと断じられ、翌年から当事者討論グループは企画から外されてしまいました。交流会は観光とリエクレーションのみの骨抜き状態となり、やがて交流会自体も解体してしまいました。
たとえ社会的養育で暮らす当事者である子どもたちが大人(職員・児相ワーカー・教師その他)を批判しても、彼らの支援者であるはずの大人は彼らの意見に耳を傾け、自らを振り返り、施設ケア向上・改善の機会だと捉えて行動すべきだったと思います。運営側の大人にそれができなかったことに失望しただけではなく、交流会を解体し既得権益防衛に徹した運営者協会に強い憤りを覚えました。
僕はそれまで、施設養護を改善していくために多くの論文を書き、業界専門誌にも何度も寄稿し、英国事情や子どもの意見表明の大切さを訴えました。そしてこの件だけではなく、施設経営・運営者協会の体質、とりわけ世襲・同族施設経営自体を問題視する論稿を寄稿し、書き直しに応じなかったので、その後は一切この業界誌からはお呼びがかからなくなりました。編集者からそうなると予め断言されても、あえて件の批判論稿をそのまま掲載させたからでした。
これ以降は児童養護施設の改善を目指す研究からは一切手を引き、専ら家庭委託研究に取り組みました。

◇児童相談所・児童ソーシャルワークの見直しが急務

英国でも何度も深刻な虐待事件が起き、その都度国費による公的事件検証報告が出され、多くの制度実務改革がなされ、ひいては子どもコミッショナーができるなど、対策が講じられています。こうした英国の歴史から学ぶことは?

こうした流れで子どもコミッショナーが出てくることはアドボカシーとの関係からでしょうが、元々は英国の発想からではなく、北欧諸国が国連子どもの権利条約12条に対応する制度を発案し、児童コミッショナー制度が成果を上げつつあったので、まずウエールズが制度化し、イングランドやスコットランドなどに広がったものです。日本でこうした制度の必要性を唱えることは当然かもしれませんが、そうした制度を支える基幹インフラがほぼ機能していませんから……。日本でこの種の機能が制度化され、それに相応しいアウトカムを生み出せるのはまだまだ先のことでしょう。
英国の戦後社会的養育史研究を踏まえ日本の社会的養育を考えたとき、伝えておきたいことは唯一つです。児童相談所という社会的養育問題のゲートキーパーたる社会機関そのものあり方の根源的な見直しが必要かつ急務だということです。
それと並んで、社会福祉教育研修がソーシャルワーク教育研修になりえていないこともあります。さらに、もうひとつ喫緊の施策課題は、戦後混乱期に国家責任を民間に代行させ、多くのこの分野の資源問題の合理的解決策を混乱させている社会福祉法人制度の見直しという課題を加えると、日本での社会的養育現代化の“三大インフラ欠損問題”と規定できると思います。
自治体行政改革が行われた80年代には、児童相談所不要論が公然と叫ばれていました。ぐるぐる各部署を異動しながら誰にも仕事ができる役所を作らないといけない。その意味で、自治体公務員労働の専門職化は適切ではないとする動きです。少人数の公務員を効率的に働いてもらうには、誰でもどこの部署でも平均的異動年数で普通に働ける自治体労働の推進、いうなれば小さな地方政府推進運動の一環です。
要するに、児童相談所は、教育にとっての学校、医療にとっての病院のような専門職従事機関として位置づけたくないわけです。今でも解消されていないでしょうが、児相の児童福祉司のアイデンティティは、公立機関の医師・看護師など、あるいは公立学校の教員がそうであるように、自らの専門的立ち位置である児童ソーシャルワーカーにアイデンティファイするのではなく、地方公務員であることの方でしょう。条件整備がまるで専門職従事者のそれではないからです。教育研修機関(大学など)の教育内容・実態、資格制度、とくに実習水準、ケース担当数、スーパーヴィジョン体制などだけをみても、日本の現状は全くのガラパゴスです。この国の社会福祉士受験資格取得教育における現場実習は、英国におけるボランティア活動資格要件レベル以下であると僕には見えます。
こうしたなか、昨年開始された日本財団と立命館大学のジョイントベンチャーであるフォスタリング・ソーシャルワーカー養成講座は、おそらく内容と質と履修者と時機においては戦後英国の自治体児童ソーシャルワーカー(child care officer)養成課程とほぼ同一視できるのではないかと、ひそかに期待しています。

◇ガラパゴス化と言わざるをえない理由

2016年に改正児童福祉法、「新しい社会的養育のビジョン」が出されたことで、日本も大きく変わりつつありますが。

日本でもようやく、やっと、ついに、とうとう20世紀後半に入りつつあるという実感です。あえて申せば、「新ビジョン」は、1946年の英国児童福祉・社会的養育大転換施策文書『カーティス委員会報告』(ケンブリッジ大学ニューハムコレジ学寮長マイラ・カーティス女史が委員長)の価値観、施策、実務理念とほぼ同じです。
つまり、これまで日本政府は第二次世界大戦以降の戦後の混乱期に大人の生活苦にしか眼を向けず、戦災孤児浮浪児の人間的暮しを無視、放置、今でいえばネグレクトしてきたわけです。それが何らまともな改革・改善無しに70年以上連綿と続いてきたわけです。そのことを「日本の児童社会サービス=児童福祉・社会的養育のガラパゴス化」と言わざるをえないのです。
ですから『新ビジョン』の登場により、日本もようやく英国における1950年代に入りつつあるなあ、という気がします。英国の戦後改革は地方自治体児童部(社会的養育を専門とする自治体部局)の成立と人材養成によって始まりました。児童相談所改革には専門職たる児童ソーシャルワーカー教育研修=真の人材育成が大前提となります。医者無しの医療制度が成立しえないのと同じです。
ついでにガラパゴス化の例をもう一つ紹介しましょう。日本の社会的養育はそれなりの税を投入しながら、それが子どもたちのために本当に活かされているのか、それに基づく社会サービスのアウトカムを誰がどう査定するのかという視点からすると、対費用効果の査定がない唯一の社会サービス領域ではないでしょうか。
社会福祉法人依存だから、制度と実務は形式的には維持できますが、まず民間企業であれば立ち行かないでしょう。資金を投入したコストに見合うアウトカム(結果:成果:生産物)がどうなっているか、要するに社会的養育で育った若者が自立し税納入者になれているか、あるいは社会的剝奪循環の新たな当事者となっているか、日本ではほぼ誰も問題にしません。
今後『ビジョン』の工程表が進行するたびに、5年~10年のスパンでこうしたケアリーバーの社会的排除率調査を行い、児童社会サービスにおけるニード充足についての欠陥を洗い出し、改善改革の新たなきっかけとすることを常習化すべきでしょう。
併せて社会福祉法人依存のサービス供給資源のあり方を、根源的に見直すことも視野に入れる必要があるでしょう。社会福祉法人という中小企業の生き残りや同族・世襲経営継続策としてではなく、あるいは施設職員の職場確保の施策としてではなく、社会的養育を必要とする子ども若者の発達・自立保障に実質的に取組み、成果をあげ、ケアリーバーの社会的排除率を不当に高めていないような社会機関・施設=社会的養育資源を万人が待望する。そのために住民すべてが社会的共同親業(Corporate Parenting=戦後英国社会的養育の基本理念/哲学を体現する用語)に参与する市民社会へと、この国を成長させていきたいものです。

◇日本人が価値を置く「単一の家族の絆」

日本人の考え方にそぐわないもの、例えば「子どもの権利」についても理解が広まりません。

そもそも日本には権利という言葉も概念も明治以前はなかったわけです。今でも「社会」という言葉より「世間」という言葉の威力の方が強いですよね。人間は個人が基盤=中心だという発想がなく、村共同体の中で争いが起こらないよう集団の和を大切にします。それが良い面もないとは言いませんが、「何が個々の子どもにとって最善の利益であるか」ということについての、まともな議論を欠いたまま、外国の制度・実務方式を視察し帰ってきて、それでおしまい。社会的養育に限って言えば、先に述べたような“三大インフラ欠損”がそうしたグローバル施策実務の導入可能性を妨げており、現状改革に生かそうとしても生かされないのです。
さらに言いますと、日本で施設入所の割合が多いままで来ている理由の一つに、日本人の家族観(family ideology)が関係するのではないかという分析もあります。三大インフラ欠損の基底には、日本人特有の家族観があります。これが日本でのファミリー・プレイスメント推進の妨げとなっていると米英研究者が博士論文で結論付けています。そこでは、日本人は単一の家族の絆(singular family bondage)から外れてしまうと、大人も子どもも不安定・不安になってしまう傾向があるとの分析がなされています。
日本人は血縁を大事すると言われますが、血縁そのものより、家族は一つであること、「単一の家族の絆」に至高価値を置いており、里親委託や養子縁組で新しい家族の許で暮らすということは、複数の家族の絆(plural family bondages)、すなわち家族としての絆が二つ以上になってしまいます。
欧米では子に実親・再婚親・再再婚親など複数の親子関係があるような日常がそう不自然ではないような生活が営まれていますが、日本ではそうした複数の親子/家族関係にある個人、特に子どもを自然に受容できる家族観は少なくともこれまでは珍しいものではなかったでしょうか。上記二人の社会人類学者によると、日本の里親委託率が低迷し、養子縁組が社会的養育選択肢として無視されてきたことの背景はこうした家族イデオロギーに日本人が牛耳られてきていることと無関係ではない、ということです。なるほどと思います。
たぶん児相ワーカーの深層心理にはこうした家族観が支配的だったのではないでしょうか。施設入所であれば、どんな親でも家族は一つのままですので、親も子も、そして児相ワーカー自身も安定すると考え、そう意思決定しがちになるという分析です。
しかし、里親や養親の許で暮らすことになると、実務プロセスの難しさや時間がかかることとの兼ね合いもあり(ケース担当数のゆえに)、こうした価値観がより重視され、家庭復帰や家族再統合がなによりも優先されるような雰囲気のある(特に慢性的人手不足の)社会機関では、里親委託・養子縁組に注力するエネルギーが出てこないのではないか、ということになるというのです。里親家庭から実親家庭に戻ったら、里親とコンタクトを取ってはいけないという実務慣行も、その「単一の家族の絆」観が影響しているのでは、という結論です。
しかしながら、これは社会的養育の子どもにとっては酷なことではないでしょうか。社会的養育だけでなく、再婚家庭、いわゆるステップファミリーも、単一絆では実親代わりの「新しい父、母」となりますが、複数家族絆であれば、第二の父・母となって広がっていってもよいし、社会的養育も実親を巻き込んだ複数の家族の絆の存在を前提とした支援があってもいいと思います。
家族生活を剥奪された子どもがいるのであれば、多人数が暮らす乳児院・児童養護施設(社会的孤児院)ではなく、家族生活に等しい社会的養育資源の存在と利用可能性を社会がどう保障するかが、最も大切な国家・行政責任です。一人親でもいいし、血縁がなくてもいい。多様化した家族のあり方に見合う家族生活を通じて、コルチャック先生のいう「ひとりの人物」(後述)を提供するのがまともな国家の社会的養育のABCなのです。

◇コルチャック先生の言葉

改めまして、津崎先生が社会的養育を実現してくうえで最も大切にされていることを教えてください。

今朝のラジオで「虐待を受けた少女たちのその後」という番組が放送されていました。自立援助ホームを出て少年院まで入った女性を、更生保護施設として認められたNPOを運営する夫妻がたえず傍にいて助けてくれたということと、助けられた女性が同じような更生保護施設を利用している若者の傍にいる支援者になっているという報道でした。
現在の社会的養育では、18歳を過ぎるとほぼ措置解除となります。自立援助ホームなど措置延長の支援はありますが、その先の支援が課題となっています。生みの親に親としての責任が務まらないなら、そうした親代わりの存在が子どもの周りにいないなら、公的制度を通して終生の親代わりを提供するという「パーマネンシー」が大事だと思います。時間がないので詳しくはふれませんが、英国ではLifelong Links(社会的養育対象者への生涯結縁保障)というパーマネンシー策がFamily Rights Groupの先導で幾つかの自治体との協働でリサーチアクションとして実施されています。アウトカムがどうでるか期待しています。
Lifelong Liksのリンク
https://www.frg.org.uk/involving-families/family-group-conferences/lifelong-links#what-is-lifelong-links

国連子どもの権利条約構想の先駆者であり、ホロコーストで自分だけが助かることを拒絶し、ナチスの絶滅収容所で200名の孤児院児とともに煙となったポーランドのコルチャック先生の言葉が社会的養育のみならず、すべての児童社会サービスの基本理念であろうと思います。それはこういうものです。

残忍な行為が当たり前になっている世界において、子どもの悲しい人生に強い影響を与えるのは、愛と理解と敬意を自分に示してくれた人物の記憶でしょう。自分を絶対に失望させない人物が一人でも存在していることを知っていたら、子どもの将来や自尊心・自己評価は違った道をたどることになるでしょう。
(S・ジョウゼフ編『コルチャック先生のいのちの言葉』明石書店2001年、107頁)
現在はホロコーストの時代ではありませんが、家庭内虐待、施設内虐待、子ども間のいじめ、学校でのいじめなどなど、残忍な行為があまりにも子どもの日常に浸透しています。国家・自治体が提供せねばならない児童社会サービス、とりわけ社会的養育分野のゲートキーピング機関=児童相談所の最前線で被害児童の人権擁護に従事する児童ソーシャルワーカー(児童福祉司)が、何はともあれ胸に刻みこみ、実務における意思決定の際に常に想い起し最優先すべき指針がこれではないでしょうか。結局、子どもへのヒューマンサービスの究極的目標はこれであり、これ以外ではありえないと、約40年間の探究で僕は示されました。
最初に述べた乳児院で集団ケアを受けるおさなごたちの不思議な、しかし当然の行動は、言葉(ロゴス)を未だ駆使できない人間による自らの発達段階に即した「ひとりの人物」を求める満身のニード充足願望表出だったのではないでしょうか。

新しい社会的養育ビジョン(厚生労働省)
https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-11901000-Koyoukintoujidoukateikyoku-Soumuka/0000173888.pdf

2019.01.08 更新

奥山眞紀子先生インタビュー「ようやく子どもの世界にも革命が起こせた」

<シリーズ・児童福祉の新時代へ>
~社会的養護の歴史的転換「新しい社会的養育のビジョン」の実現へ向けて~

「ようやく子どもの世界にも革命が起こせた」

成育医療センター こころの診療部 統括部長/日本子ども虐待防止学会理事長
奥山眞紀子先生インタビュー

平成28年6月に改正された児童福祉法の大きなポイントは、子どもが権利の主体として位置づけられたことです。これは大きな視点の転換であり、「革命的」とも評される改正でした。翌年の平成29年8月には『新しい社会的養育のビジョン』が発表され、改正児童福祉法の具体的な実践に向けての方向性が示されました。この新ビジョンの中心執筆者である奥山眞紀子先生は、長年に渡り、小児精神科医として臨床の現場で親子に寄り添いつつ、アタッチメント等の研究、子どもの虐待問題にも取り組んでこられました。今回、改めて新ビジョンのご執筆に至る経緯、その中に込めた知見と思い、そして子どもの成長に責任を持つ私たち大人がどう考えて、どう行動していくことが大切なのか、お話をお聞きしました。

(聞き手/日本財団 国内事業開発チーム チームリーダー 高橋恵里子)

◇留学先のアメリカで児童虐待問題を学ぶ

――奥山先生が社会的養護のお子さんたちと関わりを持たれたのはいつ頃ですか?

1990年の始め頃からですね。大学生のころは心理的な分野を志していましたが、実家が小児科医だったこともあり、精神科ではなくまずは小児科に入りました。当時の日本は主に不登校が問題視されており、子ども虐待については大きく取り上げられることは少なかったです。その後、1986年にアメリカへ留学しましたが、あちらでは子ども虐待が大問題になっており、私が入ったボストンのタフツ大学付属病院でも、チャイルド・セクシャル・アビューズ(子どもへの性的虐待)の問題に取り組んでいました。最初はアメリカの問題と思ったのですが、関わるうちに、日本でも潜在的に起きているであろうと推察しました。

1990年に帰国して埼玉県立小児医療センター付属大宮小児保健センターに勤め始め、その翌年からは、大規模な児童養護施設内の小児科クリニックに勤務して、こころの診療を行うことになりました。そこは児童養護施設の職員さんとお子さんを対象に、午後のみ診療するクリニックです。このときから、社会的養護の子どもたちとの関わりが始まりました。
同じ頃、東京に子どもの虐待防止センターが設立され、そこで熱心に取り組んでいた先輩のからの誘いで、虐待防止センターの活動にも関わるようになりました。1年後には『埼玉子どもを虐待から守る会』を民間団体(現在はNPO法人)として立ち上げて、医療者としてアメリカで学んだことの啓発も含め、地域での虐待防止活動に取り組んできました。

――児童養護施設に併設されたクリニックでのお子さんたちのご様子はいかがでしたか?

児童養護施設に関わって驚いたのは、子どもたちの多くが虐待を受けて施設入所しており、対応が難しい精神状態であるにもかかわらず、職員さんたちが「普通の子」として扱おうとしていたことです。女性の職員さんの中には「この子の親になりたいけれど、そうしてあげられない」というジレンマを抱えている人もいましたし、「みんな平等に扱う、特別扱いはしない」という方針も見えました。
これはアプローチの仕方が違うのではないかと疑問に思いました。私としては、子どもたちの背景を踏まえた接し方、親ではなく養育のプロなることが大事だと思っていました。しかし、職員さんたちはプロとして研鑽を積むような余裕もなく、次から次へと入所する子のお世話で精一杯のようでした。当時は施設の小規模化の必要性も考えられていませんでしたし、とりあえず最低基準ギリギリで運営しているという状況だったと思います。そうしたなかで、施設内の子ども同士のセクシャルな問題も含めて問題は山積みでした。
職員が少しずつ増員されて、虐待対応ができる心理職、ファミリーソーシャルワーカーなどの専門的役割を担う職員も配置されるようになったのは、2000年を過ぎてからだったと思います。
私が特に気がかりだったのが、乳児院から引き続いて児童養護施設に入所するお子さんたちの様子です。現在の乳児院ではアタッチメント(愛着関係)を念頭に置いた接し方がなされているとは思いますが、当時の私が関わった施設では、幼児と特定の大人の「一対一の関係」は、ほとんど作られていませんでした。お風呂も食事も流れ作業のような状態でしたし、乳児院から赤ちゃんを連れてきた保育士さんに「担当のお子さん?」と訊いても「うちは担当制ではないです」と答えます。
そうなると、全員ではありませんが、まったくアタッチメント形成ができていないお子さんも出てくる。そうした子たちは、大きな困難を抱えていました。

――どのような困難さがあるのでしょうか?

アタッチメントが作られていないと、心から安心できる愛着対象と一緒にいることができる枠組み、その子にとっての「安全基地」がないため、無謀な行動をとってしまうのです。他人を求めるのですが、信頼できないというジレンマを抱え、周囲が不快になったりどうしてよいかわからない接し方しかできず、ぶつかることも多くなったり、自分をコントロールできずにかっとなると燃え上がってしまう傾向があったりします。

家庭に居れば、親子関係がたとえ不完全であったとしても、アタッチメント形成そのものはあるわけです。子どもを叩くのは良くありませんし、体罰はなくしていくべき大きな課題ですが、少なくとも育児をするなかで、一対一の関係性があって起きてくることです。私は虐待をする親のところに居るより施設に居た方がいいと思っていましたが、そうとは言えないケースもあると考えるようになりました。

アタッチメントについて継続して調査したミネソタ大学の研究では「unavailable mother(対応してくれない母)」という言い方がされていましたが、そのような子どものニーズに応えてくれない親に育てられた子どもの予後がもっとも悪いという結果だったのです。

◇精神医学の分野でもアタッチメントが主流に

――精神医学の分野でアタッチメントが重視されるようになったのはいつ頃ですか?

アタッチメントが国際的に主流になってきたのは90年代半ばからです。それまで精神医学の主流であった精神分析は、心の中を解釈するだけで実証はできませんでした。アタッチメントは実証的に捉えていくことができたため、研究者もそちらに流れる動きがあり、国際的にも重視されるようになりました。悲しい出来事として、チャウセスク孤児院問題があります。ルーマニアのチャウセスク政権下で「産めよ増やせよ」計画があり、その結果家庭で養育しきれない子どもが大勢出て、ストリートチルドレンや劣悪な孤児院の増加があり、多くの放置された子どもたちがいたことに、チャウセスク政権が倒れてルーマニアに入った西側の国々の人々が気づきました。その子どもたちの状態は、高度のアタッチメント障害で、1960年代に実験がなされた隔離猿(餌だけ与えて関係性をはく奪して育てたサル)と同じような状態だったのです。初期には国際養子縁組などが行われましたが、その後、現地で良い養育を行えるように、「ブカレスト早期介入計画(Bucharest Early Intervention Project: BEIP)」がなされ、施設より家庭が良いことが実証されました。

それらの影響もあり、低年齢の子どもには一対一の人間関係を築ける家庭が必要であることが常識となっていったのです。10年以上前の国際子ども虐待防止学会(ISPCAN)で、アタッチメントの話題の際に、質問するつもりで、「日本にはベビーホームがあって…」という話を始めると、「それは、あってはいけない」と、一蹴されてしまいました。

日本では、被虐待児のトラウマの研究家でもある西澤哲先生(山梨県立大学教授)とも協働する中で虐待を受けた子どもは「トラウマとアタッチメントの両方が問題だ」という議論をしたものです。また、日本総合愛育研究(現日本子ども家庭総合研究所)にいらした里親養育の識者である故・庄司順一先生とも「一対一の関わりができない養育は不適切である」と話し合いました。社会事業大学長でいらした故・髙橋重宏先生や90年代の半ばに厚生省の児童福祉専門官であった故・栃尾勲さん、みなさんお亡くなりになってしまいましたが、今でも覚えているのは、既に1990年代の半ばに「子どもたちはすべて施設ではなく里親養育に移行すべき」とその3人がおっしゃっていたことです。「日本でそんなことができるの?」と問う私に口を揃えて「やるんだよ」とのことでした。

私自身は、アメリカ留学時代に里親の困難さも目の当たりにしていました。当時はもっとも酷い時期で、虐待を受けた子どもは実親と離されて里親に預けられ、その里親家庭で年長の里子からの虐待が起きていました。複数の里親をたらい回しにされる「フォスター・ドリフト」も問題視されていました。アメリカはこの後、パーマンネンシー(永続的なつながり)を重要視して、養子縁組の方にシフトしていくことになりましたが。

とはいえ、日本に帰国して施設の状況がわかると、決して施設の方がいいとは思えません。「どうにかしなくては、でもどうすればいいのかわからない」という思いを抱えながらも、小児精神科の医師として親子の診療の現場で、施設で育ってお母さんになった方と、患者と医師としてお会いすることがあると、やはり家庭で育つことの重要性を突き付けられるのです。

――そこから家庭養護の方向に向かっていかれたのですか?

90年代から虐待の問題にかかわってきた私たち虐待対応第一世代にとっては、2000年に児童虐待の防止等に関する法律(以下、防止法)が施行されたことは大きな進展でした。防止法の附則に3年後の見直しがあったことから、厚労省で対応する委員会が立ち上がりました。その中でも社会的養護の委員会は、その見直し後も継続されることになりました。

そのときすでに、「施設の小規模・地域分散化、里親養育を中心にして施設本体はそのサポートに回るべきである」という構図は描かれていました。この時点で、現在の新ビジョンの方向性はできていたとも言えます。

並行して、国際的な家庭養護への流れもありました。イギリスや大陸の方は、ややゆったりと施設から家庭へと移行していったのですが、アメリカでは施設ではだめだとして、一気に里親に移行した。それはそれで、先ほど述べたような里親ドリフトが増えるなどの問題もありました。アメリカでは1997年に「Adoption and Safe Families Act」という法律ができ、親子の再統合を目指しつつ、養子縁組も検討するなどの、子どものパーマネンシーを最優先させる動きになりました。

ただし、日本では家庭養護へ大きくシフトする流れは起きなかったことが、先ほど申したような国際的な場で批判を受けることにもなりました。

◇2016年児童福祉法改正から「新ビジョン」へ

――改正児童福祉法につながる専門委員会から、奥山先生は関わってこられました。新ビジョンのとりまとめに至るまではどのような流れだったのですか?

2015年の9月に『新たな子ども家庭福祉に関する専門委員会』ができて、当時の塩崎泰久厚労大臣が「虐待問題も大きくなり、子どもと家庭をめぐる状況も多様化、複雑化している。子どものためには何としても児童福祉法の抜本改正が必要だと思う。この委員会で方向性を示ししてほしい」と、おっしゃったのです。

委員会のコアメンバーでたたき台を作り、グループごとにディスカッションし、12月までに方向性を示し、3月に報告書が出て、法案が国会に提出されて5月に国会を通りました。この間はとても密度の濃い期間でしたね。

※日本財団も児童福祉法改正にあたっては、乳幼児は原則家庭養護とすることと、特別養子縁組を推進することを盛り込んでほしいとオンラインで署名を呼びかけました。結果として1万7千人の署名が集まり、それを塩崎前厚生労働大臣にお届けしました。

その後、児童福祉法改正により、政治的なところでの区切りがついたと思っておりましたら、再び塩崎先生が国会でお約束をした、『新たな社会的養育の在り方に関する検討会』という、新ビジョンに至る検討会を構成するということでお声がかかりました。単に法律の条文があるだけでは、現場がどう動いてよいのかわかりませんから、法律改正の考え方を理念化し、具体的にどのように運用していくかというテキストが求められたのです。

全体をまとめるこの検討会以外に、『司法関与』と『特別養子縁組』の検討会、そして『子ども家庭福祉人材の専門性確保』と『市区町村の支援業務のあり方について』のワーキンググループが進められました。

私は法改正が終わった後に、ビジョンの検討会が始まったことで、塩崎先生は我々子どもの専門家以上に「子どものために変える」という信念をお持ちだということが伝わり、心打たれました。また「改革のためにはここが重要だ」というポイントを捉えてのご発言と行動には敬服しています。

さらに申せば、識者の声、現場の声もお聞きになりつつ、「それが本当に子どもに向き合っていることなのか、子どものためになるはどうすればいいか」を第一義的に考えていらっしゃる。「当事者は誰なのか、それは子どもである」ところに立脚し、常にそこから離れない姿勢。いま振り返ると、私が申し上げるのはおこがましいかもしれませんが、「子どものために」という意味で働かせていただいた「同志」のような気がしています。

2018年9月の日本財団主催シンポジウム「全ての子に愛ある家庭を」で登壇する奥山先生

ようやく「子どもの権利」を明確に記せた

――新ビジョンのとりまとめを果たされたときの、奥山先生の言葉が印象に残っています。

「ようやく子どもの世界にも革命が起こせた」と申しましたね。「革命」とは、子どもが守られる立場ではなく、「子どもが権利の主体である」こと、つまり子どもそのものに権利があることを明確化したことを指しています。

フランス革命に始まる市民革命は、市民が権利を得るための革命でした。大人は自分で権利を獲得できますが、子どもが権利の主体であることを明確にするためには、認識も含めて大人が変わり、大人が変えなくてはならないのです。

日本が『子どもの権利条約』に批准したのは1994年でした。しかし、それを担保する法律はできなかった。2000年に虐待防止法に関わったときも、私は「権利」という言葉を入れて欲しかったけど叶いませんでした。ようやく、子どもの権利を法律に記すことができました。

――日本では「子どもの権利」ということ自体が伝わりにくいのかもしれません。

そもそもの権利意識がなじまないのでしょうね。歴史を振り返っても、日本には市民革命が起きていません。上から与えられたものばかりです。市民革命を通ってきた国は、「自分たちが勝ち取った権利なのだから、大切にする」という意識があります。

新ビジョンでも、「日本に住む子どもは、どこに住んでも同じ権利を持っている。それを保証するためにすべての地域で実行する必要がある」ことを訴えていますが、行政では「地域の実情に応じて」という話になってきます。それでは、ごまかしではないでしょうか。住むところが違うだけで、権利が保障されないことはあってはならないのです。

そもそも、弱者の権利を考えたとき、日本では女性の権利の保障ですらおぼつかない。言いだしたら切りがありませんが、いずれにしろ、子どもに権利があるのだということ、権利をないがしろにしたり、ただ大人本位でかわいがったりするのではなく、権利の主体であることを認識することが大事。その中に、「家庭で育つ権利」もあるのです。

『新ビジョン』が発表されたときには、7年以内に就学前の子どもの里親委託率を75%以上にするなどの数値目標が取りざたされましたが、子どもの権利が根底にあっての里親委託なのです。数値目標についても、やはり目標がないと進みませんから、掲げる必要はあるのです。

――家庭養育への流れについては、日本はガラパゴスであったと評する方もいらっしゃいますが。実際に福岡市では、赤ちゃんの里親にターゲットを絞って民間機関と連携したリクルートを行い、3歳未満の里親委託率はすでに50%を超えていますね。

そういう意味では、ガラパゴスだったのでしょう。ただし、後発隊の良さがあります。他国は何年もかけてそこに辿りついたわけです。不要な迷走をせずとも、海外の事例を参考にしながら、日本にとってより良い形を作ることができます。例えば、一気に施設を開放し、「フォスターケア(里親養育)へ」と動いてしまうと、非常に混乱してしまいます。そこは海外の経験を踏まえて、フォスタリング機関をきちんと作り、そこを中心にチームケアができるような形にしていくことができます。

◇社会的養育とは「育児の社会化」を示している

――新ビジョンは「社会的養育」という言葉が表題にもなっていますが、これが意味するところは?

法改正から新ビジョンに至るまでの流れは、狭義の「社会的養護」を発端としていますが、ここを解決しようと目指すとき、広い意味で「日本の養育をどうしていくのか」という視座が必要になったのです。

本来、子どもの養育は家の中だけでなく、社会が子どもを育てるのだという「育児の社会化」が必要だということは、以前から言われ続けてきました。その点では、「介護の社会化」はある程度できてきて、かつては家の中だけでしていた介護を、社会で介護をする方向になりました。

一方、育児はその負担も責任もすべて家庭の中に背負わせています。とはいえ、現実社会の方は必要性に迫られて一部は進んでいます。保育園、がそうです。昔は「保育に欠ける家のため」の保育園でしたが、今では一般のご家庭が保育園に預けていますよね。

社会的養護の問題を解決するためには、日本が「社会全体でより良い養育をする」というポピュレーションアプローチ(全体としてリスクを下げていくという健康保健分野の考え方)が必要で、それは「社会的養育」と呼ぶべきでしょう、ということになりました。

それはつまり、保育園も社会的養育であるし、地域の子育て支援も社会的養育であるし、なかでも困難な養育環境にあるご家庭には、社会が強くサポートする「社会的養護」も社会的養育の中の一つである、という位置づけです。

この概念整理のなかで「社会的養護」には、親と分離する必要のあるお子さんが、里親や施設で育つ「代替養育」と、実家庭にいながら社会が子育てを強くサポートする「在宅措置」があるということも新ビジョンのなかで示しています。厳密に言えば、社会的養護の定義は在宅措置を含むことを強調する形に変わったのです。

――つまり、『新ビジョン』は特定の困難を抱えた家族だけでなく、多くの子育て世代に伝えたいことなのですね。

本来はそうあって欲しいのです。家で子どもをみている家庭への支援、妊婦さんへの支援も必要であって、その一部として社会が強い責任持たなくてはいけないグループが、「社会的養護」である、ということです。

イギリスにおける『インケア』という考え方に近い。最終的に自立支援を考えたときに、インケアという考え方をしておけば、自立支援は現在施設にいる子どもの支援だけでなく、家庭での在宅措置で福祉司指導を受けたお子さんたちの自立支援も考える必要があります。その部分も社会の責任として担っていこう、ということです。

◇民間と行政が一緒に「子育ての地域づくり」を

――社会的養育を良いものにしていくためには、どのような地域社会が、個々人の意識が必要ですか?

子どもにやさしい社会、子どもにやさしい地域は、誰にとってもやさしい地域ではないでしょうか。それぞれの地域の中で、子どもが大切にされるような取り組みがあることが大事だと思います。そのためには、民間も行政も一緒なって、地域づくりに取り組んで欲しいです。

前述の市町村のワーキングの中で提示された、「子ども家庭総合支援拠点設置要綱」や大改訂された「市区町村子ども家庭支援指針」には具体的に支援の在り方が提示されていますし、地域づくりの重要性も記載されています。支援拠点を作り、そこが中心になって地域づくりをして、子ども家庭をサポートできるようにする。それこそ、各地域にすでにある保育施設などの社会資源と地続きで、工夫して作っていってくださるといいと思います。

――最後に、奥山先生がこれから取り組みたいことをお聞かせください。

これからも子どもたちにつきあっていく、ということですね。近年の児童精神科では、ともすれば「症状だけから診断して、投薬治療をする」ことが中心となっている傾向があります。私は、親御さんやお子さんと対話をしながら、その子の一生のことを考えながら、寄り添っていくような治療をしていきたいと思っています。医療者として、家庭の問題や親子関係の問題などにもコミットしながら、その知見を踏まえて、地域で困っている方々とも関わっていければと思います。

私の関係する地域でも新しく児童相談所を作る計画がスタートしており、そこでも話し合いに参加します。『新ビジョン』を世に出した一人として全体を見守りつつ、地域の一員としてもサポートをしていくつもりです。

――まだまだご活躍ください。本日は貴重なお話をありがとうございました。

新しい社会的養育ビジョン(厚生労働省)
https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-11901000-Koyoukintoujidoukateikyoku-Soumuka/0000173888.pdf
子どもの権利条約について(ユニセフ)
https://www.unicef.or.jp/kodomo/kenri/syo1-8.htm