日本・海外でのインタビュー

2017.04.27 更新

「子どもが家庭で育つ社会に向けて」ロジャー・シングルトン卿 講演 その②

日本子ども虐待防止学会 第22回学術集会 おおさか大会

2016年11月25日

日本財団 スポンサードセッション
「子どもが家庭で育つ社会に向けて」

英国 バーナードス元代表(CEO)ロジャー・シングルトン卿

◇ 非摘出子に対する態度の変化など

バーナードは、他の要因もあって乳児院の閉鎖を進めることになりました。要因の一つは、ケアを必要とする件数が減っていたという理由です。
1960年代の10年間は、英国社会において何世代にも渡って当然と考えられてきたものが、大きく変わった時期でした。
例えば非嫡出子に対する社会の態度。数年前であれば女性が非嫡出子を出産した時、その子どもは政府や慈善組織に委託して、すぐに養子縁組を組む、もしくは乳児院へ預けるべきという考え方が主流でした。
しかし、1960年代に入ると、一人親に対して社会が寛容になりました。大々的ではありませんが、「それでもかまわないのではないか」という態度が出てきました。また、国の生活扶助も向上し、シングルマザーが非嫡出子を出産した時に、経済的理由のみで子どもを手放すことも減ってきました。さらに、避妊方法が広がり、ピルなども使用されるようになり、予期しない妊娠の数も減りました。
もちろん、どのような社会政策であっても、その政策が実施される文化と伝統の中で意味をなさなければなりません。ですから、英国と日本の間には考え方の違いがあるでしょう。英国でよかったから、日本でも同じがよいとは申しませんが、英国の場合には非嫡出子に対する偏見が減ったことで、以前であれば施設入所していたと思われる乳幼児の数が減ったことは事実です。
もう一つ、施設ケアから脱施設化に移る要因として、コストの上昇がありました。以前は乳児院で仕事をしていた保育師やスタッフは、その仕事に必要なだけの時間、働かなくてはなりませんでした。しかし一週間の労働時間が定められ、給与や労働条件が改善される流れは、人件費の上昇につながりました。ここで機を見るに敏な政治家たちは、社会全体で乳児を施設で養育することへの批判が強まっていることから、「経済面でも子ども達のことも考えて乳児院ではない養育が望ましい」という結論につなげました。

◇ 子どもと実家庭の再統合

ここからバーナードスにおいて、どのような経過で乳児院を閉鎖していったのかお話しいたします。それは、「施設に入所させない」「子ども達を家族の元に戻す」「里親ケアか養子縁組をする」ということです。障害児の場合は残念ながら、当時は他の施設ケアに移るという措置を行いました。これは私たちが1960年代~70年代にかけて行ったことであり、現在とは異なりますので、留意してお聞きください。
まず施設入所をさせない、そして子ども達を母親、家族の元に戻すということは慎重なアセスメント(評価)が必要でした。児童虐待が一つの理由として施設措置になっていた場合は特にそうです。非嫡出子だからという理由だけで入所していた場合は、母親を探し、そして慎重に判断をいたしました。
家族の元に戻れそうな場合に判断したのは、経済状況、母親の状況、祖父母にあたる家庭がもう一人幼い子どもを養育する力があるかどうか、そしてどのようなサポートがあれば可能かを考えました。
バーナードスは母親へのサポート、そして社会福祉的なサポートを提供することができました。また、元の家族に戻すことが適切でない、両親・親族を含めて適切でないと判断される場合には、養子縁組そして里親ケアを考えました。

◇ 養子縁組や里親ケアを探る

養子縁組を検討したのは、その子が生まれた家族では充分な養育が受けられない、または家族がそれを拒否しているような場合です。幼い子どもの養子縁組は、病気や障害がない、民族的マイノリティーではない、などの複雑な問題がないとき、バーナードス自体が養子あっせん登録機関でしたので、養子縁組を進めることができました。
里親ケアは、子ども達がすぐには家に戻ることができない、けれども後になれば戻れるかもしれない、あるいは法律的な理由で養子縁組ができない、つまり実の両親が養子縁組を拒否しているような場合。さらに養子縁組が難しそうだ、つまり子どもが障害を持っている、民族的マイノリティーであるというような場合です。こうした取り組みの中で、里親ケアから養子に移行した例もありました。
里親にサポートをして、生活を安定させることは重要だとわかりました。というのも、子ども達は一度も家庭での生活を経験したことがなく、乳児院の世界しか知らなかったのです。毎日同じパターンの生活、ご飯の時間、散歩の時間、寝る時間、朝起こされて、着替えをさせられて、そして集団で部屋の間を移動する。そうすると、里親の家庭において、大人や他の子どもと関係を作るのがなかなか難しかったのです。問題行動を起こす子どもいましたし、また里親の忍耐の限度まで試し行為をする子どももいました。

◇ 障害児、民族的マイノリティーの課題

大半の里親ケアは成功しましたが、残念なことに上手くいかなかった例もいくつかありました。里親ケアには難しい面もあることから、やはり乳児院閉鎖はよくないのでは、という意見の人たちからの反対も起きました。しかし、私たちは忍耐と決意でやり通していきました。
しかしながら、一部の子ども達は取り残されました。それは障害児、あるいは民族的マイノリティーの子ども達です。また、当時は障害児には施設ケアが良いという根強い考えがありましたので、乳児院を出ても障害児のための施設に移行する子どもは多くいました。
マイノリティーの子ども達は、里親が見つかった場合もありましたが、施設に移った子どもも多くいました。現在でも施設ではマイノリティーの子どもの割合が高いままです。
フォローアップの研究があります。これは「乳児院から移行して2年後、子ども達はどうしているか?」という調査です。42%は自分の家族と暮らしている、28%は養子縁組、15%は里親家庭です。里親家庭の割合は当初は29%でしたが、これは里親が後になって養子縁組をしたということです。10%の子ども達は、バーナードの他の養護ホーム、特に障害児の為の施設にいきました。それ以外が5%となっています。

◇ 施設閉鎖の問題と対処法

ここから施設閉鎖にどのような問題が起こり、どのように対処してきたかをお伝えします。乳児院を閉鎖するという決定にあたり、バーナードの理事会は大胆な決定を行いました。代表理事の助言に従って、20カ所の乳児院を施設として閉鎖するだけでなく、保育士養成学校も閉鎖することにしました。子どものためにはそれが一番いい方法だと思ったからです。名称も「バーナードスホーム」から「バーナードス」に改めました。
しかし、もちろん抵抗もありました。バーナードスは1866年に創設されましたが、その100周年を盛大に祝ったばかりという時期だったのです。また、寄付を一般から募り、施設の建て替え改修をしていました。その建物をわずか3年後に閉鎖しようというのですから。さらに、保育師養成学校は240名の学生を受け入れています。その校舎も最新の施設を整えたにもかかわらず、これも閉鎖することになったのです。バーナードは、一般社会にどのような説明ができるのか難しい局面にありました。
一般の市民はバーナードの乳児院の活動を高く評価し、寄付もしてくれていました。したがって、施設の閉鎖をやりとげるために、バーナードの経営層は大変な努力をして、管理職を励ましたり、説得したりすることが必要でした。そして各施設の長であるマネージャーに対するサポートが必要でした。閉鎖という悪いニュースをスタッフに伝えることで、自分たちの将来がわからなくなる中、「子ども達のためにベストを尽くして欲しい」と告げなくてはならなかったからです。

◇ スタッフの懸念

スタッフが最も懸念したのは、子ども達が虐待の可能性のある親と一緒に暮らすことの危険性でした。もちろん、そのリスクは確実にありました。虐待の可能性を持つ親から子ども達を離したほうが、共に過ごさせるよりはるかに安心でした。しかし、家庭を慎重にアセスメントすることによって、虐待をする親である彼らがどのようなストレスを感じていて、そのストレスをどう軽減できるか考えることにより、子ども達への危険を軽減することは不可能ではありませんでした。
親を教育する機会を持つこと、子ども達のデイケアを提供すること、あるいは財政的、社会的なサポートをすることにより、子ども達は実家庭に復帰することができたわけです。両親の教育や、子どものための保育園、経済的・社会的な支援は多くの子ども達が実家庭に復帰することを可能にしました。そうでなかった場合には、様々な種類の里親制度を開発すること、あるいは緊急時には親族と共に生活させるなどして、施設入所の必要性はだんだん少なくなっていきました。

 ◇ スタッフの抵抗

スタッフの抵抗は大きかったです。乳児院を閉鎖するということへの抵抗は当然であり、理解できるものでした。年長のシニアスタッフたちは、長年施設で仕事をしてきたわけです。独身女性が多く、子ども達のケアする仕事に情緒的にとても満足していました。宿舎も施設の中にありましたので、閉鎖されるということは、仕事を失うことだけでなく、住むところも、母性を発揮する手段も失うと言うことでありました。若いスタッフにとっても、もちろん新しい職場をどこに見つければいいのか、施設と言う働く場が少なくなっていく傾向でしたから、不安はなかったとは言えません。施設ケアが減っていくなかで労働組合の抵抗が大きな要因となってきました。
それまで異なる環境で働いていたスタッフに対応するために、様々な職業の開発が必要になりました。年少の子ども達への保育プログラムを拡大し、多くのスタッフがそこで働けるようにしました。あるいはソーシャルワーカーになりたいという人たちもいました。バーナードは、組織に対するコミットメントを持ち続け、充分な資格を持ったスタッフたちには、大学等で勉強するチャンスを与え、ソーシャルワーカーとしての専門職の訓練を受けることを許可しました。この場合、コース終了のあかつきにはバーナードスに戻ってきて、少なくとも2年は働くことが条件でした。
その他に、この機会に子どものケアからはむしろ離れ、キャリアを変えたいという人たちもおり、彼らには就職ガイダンスやアドバイスが提供されました。単に辞めるということを選択したスタッフもいました。
より年長のシニアスタッフは選択肢が限られていました。もちろん早期退職制度を提供できる人たちもいました。新しい保育センターにはマネージャーが必要でしたので、その担当をするチャンスも提供されました。とはいえ、すべての人がそれに適していたわけではありませんでした。当時の施設長の中には、入所している子どもの親との関係をうまく築いていない人もいました。しかし新しいファミリーセンターのスタッフは、親と協力して仕事をしてもらう必要がありました。その意味では、すべての人たちがその新しい仕事に適するとは言えなかったのです。
バーナードスは大きな組織でしたので、シニアスタッフは他の仕事のチャンスを、例えば障害児を対象にするプログラムで得ることができました。しかし正直に申し上げますと、全く新しい仕事のやり方に適応できなかった人も少数ながらおりまして、怒り、失望しながら去っていった人たちもいました。

◇ シニア小児科医からの抵抗

こうした変革は誰にとっても簡単ではありませんでした。それでも、常に忘れなかったのは「子どものために何が最善なのか、最善を実現しよう」ということでした。とはいえ、スタッフがこの変革にうまく対応できる気配りが必要でした。多くの心理学者たち、ソーシャルワーカーたちは乳児院の閉鎖を喜びました。しかしシニアの小児科医の人たちからは抵抗がありました。特に年少の障害児のケアに関して。重度の障害を持った乳児の親に対しては、施設入所が勧められていました。そうすると家族は、子どもがまるで最初から居なかったような生活を続けることになります。医療ニーズを必要とする子ども達、そして身体的ケアを必要とする子たちは、入所ケアしかあり得ないと考えられており、医師の中には施設を維持したいという考えもあり、やはり家族では対応ができないだろうという判断だったのです。
振り返りますと、この抵抗に対して我々はうまく対応できなかったと思います。正面から問題に立ち向かうことなく、時には妥協することもありました。一緒に努力をして、地域社会でケアができることを実証しようとしなかったのです。この問題は、最終的に特定の戦略を通して状況が改善されたわけではありませんが、抵抗の中心であったシニアの医師たちが徐々に仕事を退き、健全な児童発達には何が必要なのかということに理解をもつ若い医師たちの出現によって、解消されていきました。しかし、その間に犠牲者となったのは障害児たちです。長い月日の施設入所を強いられてしまいました。

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【ロジャー・シングルトン氏 発表資料】

日本語版「子どもが家庭で育つ社会にむけて」

英語版 “Toward a society where children are raised at home”