インタビュー

2014.07.26 更新

語り始めた当事者たち――養子たちはいま

親子pic

戦後の日本では、子どものための養子縁組はどちらかと言えば「家族の秘め事」として扱われ、養子たちが自らの出自をオープンに話すことはまれなことでした。一方、養子縁組の歴史が古いアメリカやヨーロッパの国々では、本人だけでなく、周囲にも養子縁組であることをオープンにすることが多いようです。最近は日本でも養子本人への親からの告知が進み、自らの生い立ちをポジティブにとらえて自分の言葉で語る養子たちが少しずつ現れ始めています。  

 

●「私と両親をつないでくれた、名前も知らない役所の人に感謝している」

IT企業で働くフミさん(30)が、いまは離れて住む両親から養子である事実を告げられたのは25歳のときでした。「用事があるから帰ってこい」。そういわれて帰省し、夕食後に居間でくつろいでいたとき、父親が神妙な表情で切り出したのです。「実は私たち親子は血のつながりはない。でも、何も変わらないから」。そう話す父親は、マヤさんと目を合わせず、体は震えていました。母親はその横で何も言わずに呆然としていました。マヤさんは「わかった」とだけ答え、いたたまれなくなって二階の自室に駆け込みました。

「真実告知のタイミングとしては遅いほうですね。でも、両親との揺るぎない関係が築かれ、物事を理解できる年齢で直接親から聞けたのは幸せでした。親戚を含め、周りの人たちが全力で私を守ってくれていたのだと思います」

一人娘のフミさんは、両親の惜しみない愛情を受けて育ち、中学・高校時代は部活動や友だち付き合いにいそしむ、ごく普通の青春を送りました。親の愛情を疑ったことは、一度もありませんでした。でも、いま思えば、「あれ?」と思う小さなできごとはいくつかありました。首がすわった頃からの写真は膨大にあるのに、生まれた直後の写真はポラロイドが1枚あるだけだったこと。母親のおなかには筋腫の手術の跡がありましたが、「何の傷だろう」と思いながら、聞けずにいたこと。フミさん自身は覚えていないのですが、父親に「もらいっ子なの?」と聞いたこともあるそうです。小さな疑問は小学校低学年の頃から時折、感じていたのでしょう。

その後、母と娘で海外旅行をしたとき、母親が「後で読んでね」と長い手紙をくれました。そこには、子どもができず、離縁さえ覚悟したけれど、父親とその家族がむしろいたわってくれたことや、フミさんを養子として迎えた経緯が、便箋何枚にも渡って書かれていました。

フミさんが生まれたのは、特別養子縁組の制度ができる数年前です。(制度ができた年に手続きをして特別養子となりました)。母親の不妊の事情を知る市役所の職員が、あるとき生みの母が育てられない赤ちゃんを紹介してくれたそうです。その職員がいなければ、フミさんは両親と巡り合っていませんでした。「もし何かが少しずつずれて、この家に来ることがなかったら……。運命の不思議さに恐れさえ感じます」とフミさんは言います。「その役所の人が、通常の業務の枠を越え、リスクもいとわずにしてくれた行為がなければ、私はいまの両親と巡り合えずに、施設で育っていたでしょう。名前も知らないその人には感謝してもしきれない。ひと目会ってお礼が言いたい」。

一方で、生みの母には複雑な思いを抱いているといいます。事実を知らされたばかりの頃は、「どこで何をしているんだろう」と思いました。自分と似た人なのかな、という興味もありました。新幹線の中で(同じ車両に乗り合わせているかもしれない)と思ったり、地元で大きなお祭りがあると、(この人波の中にいるかもしれない)と思ったりもしました。でも、具体的に調べる気にはなりませんでした。

フミさんの中で「出自」と「育ち」は完全に切り離され、自分が生きる後者の世界に満足しているので、ふと考えることはあっても、全容を明らかにする動機がないといいます。大人になってからは、生みの親の存在に少し反発を感じてもいました。「血のつながらない両親がここまでしてくれるのに、産んだあなたはなぜ、親としてすべきことをしなかったのか、人として許せないという気持ち」になってしまうといいます。ただ、「この気持ちは、親の愛を疑うことなく、普通に育った証拠かもしれない」だとも感じています。

真実告知にはタイミングや受ける側の心理状態など、色々な要素があると思います。フミさんは「○○歳でやらねばならないといった鉄則はない。私は人より遅かったけれど、しっかりと家族の絆ができていたので、告知の前後で関係は何も変わらなかった。どのタイミングがいちばん良いかは、個々の状況、環境にもよるのではないか」と話しています。

 

●「養子縁組は家族が巡り合うプロセスが違うだけ」

保育士をめざす短大1年生のナオミさん=19歳、仮名=は、学校の授業にサークル活動、アルバイトで毎日大忙しの快活な女の子です。彼女はうまれてすぐ、妊娠相談や子どもの養子縁組を手がける東京都のNPO法人「環の会」を通じて、いまの両親のもとに特別養子として迎えられました。1991年創設の「環の会」では、育て親となる夫婦に、子どもが幼いうちから、本人に養子であることを伝えるよう奨めています。ナオミさんも赤ちゃんの頃から、養子縁組を描いた絵本(※「ねえねえ、もういちどききたいな わたしがうまれたよるのこと」)を読んでもらいながら、自分には両親のほかに生みの親がいることを聞いて育ちました。「幼稚園にいくまで、ふつうはお母さんが1人だということを知らなかった」と言います。

ナオミさんには、やはり養子の2歳下の妹がいます。「家族全員、血がつながっていないから、血のつながりってあまり大きな意味を持たないです」。読書好きのナオミさんと妹は性格も趣味も180度違い、しょっちゅうけんかしていますが、「仲が悪いのは性格の違い。血のつながりとは関係ない」。ナオミさんは背が高く、サラサラの髪の毛。一方、育ての母親は背もそれほど高くなく、髪質も違うそうです。「それはそれ。縁あって家族になったわけで、今の家族の組み合わせ以外、なかったと思う」とナオミさんは明快です。

中学生の頃には反抗期もありました。母親にガミガミと怒られたときは、「そんなにいやなら養子にしなきゃよかったじゃない!」と言ったことも。「環の会」の会合などで会う養子仲間の名前を挙げ、「○○ちゃんのお母さんだったらよかったのに」とわざと意地悪なことを言ったこともあります。すると母親は「ほんと、そうよねえ」「そんなこと言っても仕方ないじゃない」とサラリとかわしていました。大人になって当時の自分を振り返り、「間違いなく自分の家族だと思っていたからこそ、あんなことが言えた」と思うそうです。

養子であることを強く意識させられたのは、むしろ「外の社会」によってです。小学校高学年のころ、家に遊びに来ていた友だちから突然、「ナオミはもらいっこなの?」と聞かれたことがあります。その時は母親のほうがあわてて、その子にきちんと説明したあと、夜になってナオミさんに「社会の視線」について話してくれました。「血のつながりがなくても、私たち親子は何も変わらない。でも、世間ではそういう見方をしない人もいるのよ」。

ナオミさんは、生みの親が自分を施設に入れずに、こうして家庭に託してくれたことを感謝しているといいます。「どんな事情があり、どんな思いで手放したのだろうと思うことはあっても、憎いと思ったことはありません」。それでも、生みの母のことをあれこれ想像したりはします。やさしい人だろうか、お金持ちなのかな……。「でも、ただ想像するだけです。そこで育て親が気後れしてはダメ。あなたを愛している、迎えてよかった、私たちは家族なのよって、言い続けてほしいのです」。

子どもの立場から言わせると、「どんなに隠しても、子どもは必ず気付く。そのときに取り返しがつかないことになる」と言います。子どもはそんなとき、裏切られたと感じ、隠していた親を恨み、捨てた親を恨みます。「幼い頃から養子であることと、血のつながりに左右されない親の愛情を伝えていれば、子どもはだれのことも恨まない」とナオミさんは言います。

ナオミさん自身は、いまの家庭に来るべくしてきたと思っているそうです。「長いこと一緒に暮らしていると、家族の波長や雰囲気まで似てくる。理屈じゃないです」。養子縁組は、さまざまな家族の形の一つであり、その家に生まれてくることも、その家に縁組されることも、同じ偶然による「奇跡」だ――。ナオミさんはそう考えます。

「養子縁組は、親子がめぐり合うプロセスが違うだけです。何をみんなこだわっているのかと思いますね」。

 

●養子が語る、真実告知の役割

最後に、生後まもなく生みの母が亡くなり、乳児院に預けられ、生後4カ月で今の両親のもとに養子縁組された北陸地方に住む40代の女性の体験から考えてみたいと思います。

 

女性は二十歳の時に真実告知を受けました。でも、実は6歳のときに保険証の「養女」という表記を偶然目にしていたのです。女性が養子となった当時は、法的にも実の親子となる特別養子縁組の制度はありませんでした。普通養子縁組では、公的文書には「養女」と記載されます。女性は両親に真実を問いただす勇気はなく、二十歳でパスポートをとるために戸籍抄本が必要となるまで、自分の出自について両親と話す機会は訪れなかったのです。「自分の生みの親は誰なのだろう?」という思いを、それから14年間、ずっと抱き続けていたそうです。両親に「へその緒をみせて」と言ったり、名前の由来を聞いたりしても、「どこへいったかなあ」とはぐらかされたり、父母で違う由来を言われたりしました。両親から十分な愛情を受けていると実感しながらも、両親の態度に不満や不安を感じ、「漠然とした欠落感を背負っているようだった」といいます。

二十歳の真実告知は、大学進学で親元を離れていたため、長い手紙で届きました。最近、実家の片付けをしていて、両親が自分にあてて書いた長い手紙の下書きを見つけ、それを20数年間保管していた両親の深い思いを感じたそうです。「手紙は一つの手段だと思う」と女性は言います。将来、子どもが成長してルーツを知りたいと思ったときの手がかりになるし、育て親の思いを確認できるからです。

女性はその後、30代で実父と兄、その家族らと対面を果たしました。初めて会ったとき、(自分が男に生まれていたら、こんな風貌だったろう)と思ったそうです。その兄とは、同じ地元の高校に通っていたこともわかりました。ところが、兄は40代で急逝してしまいます。「もう少し早く真実を知っていたら、もっと兄と長い時間を過ごせたのに」。女性はそう悔やんでいます。

養子であることは、隠し通せるものではないと女性は言います。自身が養子である女性が長いこと考えて達した現時点での一つの結論は、「真実告知は親がイニシアチブをとって導くものであり、子どもはそれに『波長』をあわせて受け止めていくもの」だということです。女性の場合、自分たち親子はびくびくしながら互いの関係を確かめ合ってきたけれど、ほかの養子縁組親子のなかには、親が幼い頃から真実告知をし、その内容も子どもの成長にあわせて変えていった人たちもいるといいます。

「子どもが物心つく前に、血縁関係がないこと、それに関係なく、子どもを愛していることをセットで伝えることです。子どもはショックを受けるかもしれませんが、その子自身が時間をかけて受けいれていくしかない。子どもにはそうする力があります」。

text by 後藤絵里(朝日新聞GLOBE)